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veu point!

おもしろい!と思ったことをあれやこれや記事にしてみます!

畑のある生活

原発反対を唱える久保田(仮)君。
久保田君は現代社会の仕組みに違和感を持っている。

現代社会の仕組みは大量生産、大量消費。
その仕組みによって、私たちの生活はより便利になっている。その仕組みによって、より多くのモノが私たちの目の前に並べられ、ぼくたちは多く与えられている選択肢から自由に選び、自分の生活を潤し彩ることが出来る。
しかしその陰で多くの無駄が生まれている。
選ばれなかった多くのモノが活用されずに廃棄される。
大量生産、大量消費の社会を成す為には莫大なエネルギーが必要とされる。莫大なエネルギーを供給する為に必要とされるものが発電所である。火力発電、水力発電風力発電太陽光発電、そして原子力発電だ。

原子力発電は、日本において火力発電の次に多い発電方法である。しかしこの発電方法は特にリスクがあると考えられている。それは、使用済み燃料の処分場所を確保しなければならないこと。そして仮に発電所が災害に見舞われた際に広範囲に及ぶ人体への影響、土地の汚染が懸念されることだ。

このリスクを抑えるマネジメントがきっちりできるなら原子力発電も「有り」とする考えがあり、他方でマネジメントどうこうではなく、大量生産、大量消費社会から脱却しようではないか、と考える者が原子力発電に反対している。

久保田君の立場は後者で、この大量生産、大量消費の現代社会の仕組みを根本的に見直す必要があるのではないか、という視点から原発反対の意を投じている。

しかし、久保田君は悩んでいた。
実際の自分の日常生活を見返してみると、まるまる電力会社から供給される電力に頼りきっている自分の暮らし方が目に付いたからだ。
もちろんそのような中でもエコロジカルな暮らし方を志しているつもりであり、少しずつ自分の理想に実生活を近づけていく気概を久保田君は持ち合わせていた。
しかし、何かが久保田君の中で引っかかっていた。

それは、「結局のところ、お上から下る理想的な指示、法律の整備を待たなければ生活を変えることはできないのだ」と思い込んでいる自分の態度であった。

ある時、久保田君は考えた。
「ほんとうにそうだろうか?理想的な生活の実現の為には他者の動きを待つことしかできないのか?先んじて手にすることはできないのか?」

そして久保田君は思い立った。
もともと頭の隅に置いていたイメージ。
「自給自足」の第一歩。
畑で作物を育てる、ということを始めてみたのだ。

気の置けない仲間とゆるく踏み出したその歩みは、その歩みを少しずつ進めるほどに、彼に確かな実感をもたらすことになった。
「これだ、。これだ!」

畑は田舎町で放棄されていた所を借りた。
畑の持ち主と会話を重ねながら、地元の人々との交流を深め、情報を集めながら、そして気心知れる仲間と共に耕すところから始めていった。
普段は都心で仕事をする久保田君。
仕事が休みの日に、計画を立てて車を飛ばし、自分たちの畑に出向いた。
しかし予定通りにはいかなかった。
丸一日草むしりで終わることもあった。
想定外の出来事の連続で身体はへとへとになったが、むしろ彼の気は充実していった。
自分の内から湧き出てくる「やってみたい」という好奇心と、実際に本質的に自分が向き合うべき課題とが重なっていたからだ。

「やらなければならない」という重苦しい使命感から始めなかったことが幸いだった。
「やってみよう」という自発的、能動的姿勢が、クワを振る腕を軽くしていた。なにより共に連れ立った幼い子どもが自然の中で伸び伸びと過ごしているのだ。自分から何を言うでもなく、子どもは自然から発見し、自然から学び、自然から感じ、そして自然に呼応している。。
彼は自分が追うべきライフスタイルを見出だし始めていた。

「仲間が増えたらいいな」という思いから、彼はSNSを使いながら畑仲間を募集した。
すると、あちらこちらから思うところのある者が集まってきた。
皆、自分から、一からは始められないと思っていた者だった。
意外にも仲間は集まり、それぞれが思い思いに自分の育ててみたいと思う種を植え、そして育った作物を喜び、皆で共有してみた。
自分の食べるものを自分で生産する喜びを味わった。しかもそれはまったく自分一人だけで行っているものではなく、自由な思いから畑に飛び込んでくる仲間と共に味わうものであったから、喜びはなおさら広がった。

畑を始める前から、共に作る喜び、共に味わう喜びを期待する想像力は持っていたつもりだ。
しかし、頭で考えていたのと、実際にやってみるのとでは、やはり実感が異なることを思い知らされたのだ。

この経験を得てから久保田君はますます理想的な政治とは何か、という問いに対して腰を据えて向き合うことができるようになった。
自分の考える理想的な暮らしを追って、実際にそれに着手したからだ。だから個人レベルで出来ること、国家レベルで形成する必要のあることについて感じ取る力が養われ、何を政治に期待すべきか、何を自分で受け持つべきか、そのような考え方ができるようになったのだ。

畑のなかったこれまでの暮らし方に比べて、畑のある生活は疲労が積もるようだ。
しかし精神的な疲労はかなりのところ軽減された、と久保田君は語ってくれた。

「いまのおれの暮らし、ほんとうにこれでいいのか?」

ぼんやりと悩みを感じながらも、代わり映えのない毎日に鬱屈としている人も多いのではないだろうか。

僕自身はといえば、いまだに自分の理想すら図れずにいる者だ。

……おっと、。心のスキマに付け入る輩はお呼びでないぜ。

この話をしているとき、久保田君はあんまりハシャいでなかった。静かに。けれどその目に熱気を帯びてしんしんと話してくれたよ。

その感じ、、良かったな。