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信仰について②

神の姿、神の力をハッキリと目の当たりにした場合、人は神の存在を信じるようになるのでは、と考えたのだが。。
しかしそれでもなお「信じられない」ということが起こり得る、ということを前回の記事で述べた。

その場合の「信じられない」状態とはどういうものだろうか。

前記事で言う「ハッキリ表された神の力」とは「荒野の地表に自然発生するはずのないパンのようなもの(=マナ)が毎朝発生するという事象」を指している。 

補足すると、荒野を旅したイスラエル民族は諸部族合計で何十万人と見なされており、これらすべての者が、そのパンを十分食べることが出来た、と聖書本文で記述されている。…普通ではないことが起こっていることは分かる。

この物語の読者が、聖書記事そのものを胡散臭いと考える心情は当然理解できる。
理解に苦しむのは、仮にその事象が事実であったとして、その様子を実際に目の当たりにしたイスラエルの民の少なくない者が、なお神の力を軽んじ、結果として神から罰せられた、という聖書物語の進行である。

さらに言えば、聖書物語は同じイスラエル民族にスポットを当て続け、神がイスラエルに奇跡を体験させ続ける様が描かれているのだが、やはり同じように奇跡を体験したはずのイスラエルがなおも神に反逆する様を描き続ける。

イスラエル民族の中にも個人差はあるようだ。ある者は神の奇跡を経験して感動し、神に倣う者である。またある者は奇跡を経験してなおも神に背反を示す者である。しかし聖書物語を通して言えることは、イスラエル民族は結果として民全体が神への背反を繰り返しているということである。

つまり、これらのことから言えることは、奇跡的な体験の有無は一時的に人を神に結びつけるかもしれないが、人が絶対的に神を認めて従順するようになる決定的な鍵にはなっていない、ということである。

さて話を戻すと、なぜある人は神の奇跡を経験してもなお「信じない」という心理状態に成りうるのか。
私がもしも神の奇跡を経験させられて、神の力をありありと見せられたなら、もはや信じるほかない、と考えるだろう。
ところが例の場面でイスラエルの民の一部は神に示されたやり方ではなく、自分たちの思う通りに行動した。神を軽んじたのだ。

ある意味、この者たちは神に甘えた、ということなのではないか。
「神は確かに我々と共にいて下さるようだ!(=神の力の認知。パンの出現は神の技と認めている。)このことで神は我々にあれこれ言ったようだが、結局は我々をかわいがっているのだから、いくらかルールをはみ出したところでどうということはないだろう」
と考えたかもしれかい。
神の非常な力は認めているが、しかし絶対者としての神の意向については軽視し、神から大目にみてもらえるとタカをくくった。

または、
「なぜ『毎朝だけパンをとってもよい、余分は残すな』というのか、その意向がよくわからない。せっかく我々に与えてくれたものなのだから、かえって余らせるということは神に対して無礼ではないか。神が我々に与えてくれたものを大切に取り置きし、活用しよう。神も我々のこのようなリアクションを分かってくれるはずだ」
と考えただろうか。

仮にこのような考え方を民が持っていたのだとすると、それは単純な離反とは言いづらい。つまり、神は信頼に足る存在であるということは認めた上で、神の意向を自分勝手に読み間違えて、神からすれば見当違いのことをしでかしている、という解釈だ。

神を「信じない」わけではなく、「信じているつもりで勝手なことをしでかす」
あからさまに神に反抗しようとしたのではなく、見当違いの行動の結果、それを神から背反と責められてしまった、という具合だ。

良かれと思ってやったことが裏目に出てしまったというような話。
イスラエル民族は幼い頃から天と地を創造した絶対的な神について学び聞かされるのであるから、そう簡単に神への信仰を翻すものではないと思われる。

つまり、神が発した命令に対する誤解およびそれによる方向違いの行動。
このことを神はよしとせずに罰しているのではないだろうか?

人は神の命令について余計な勘ぐりをせずに発せられたそのままに受け取る必要があるものと思わされる。

それならば、いったい信仰とはなんであろうか。
もしも言われたことについて自動的に応じることがよし、とされるなら、もはや人間は言われたことだけをこなすロボットとなったほうが神にとって便利で都合が良かったのでは、と思ってしまう。

総合的に考えてゆくと、人間は事実、ロボットではないし、未成熟なら未成熟なりに頭をはたかせて意志決定し行動している存在だ。
人間の知性があまりにも未熟であることは創造主である神が知るところであろう。
しかし神が人間を創ったのだ。
神が人間に求めている信仰とはどのようなもななのだろうか。