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信仰について①

旧約聖書では神の民としてイスラエルの人々にスポットライトが当てられる。彼らが日々の暮らしの中でいかにして神が発する言葉に聞き、倣ってゆくか、その様子が描かれている。

創世記に続く旧約聖書第二番目の書物出エジプト記では、指導者モーセイスラエルの民を引き連れて紅海を渡る有名な場面が描かれている。
その後、イスラエルの民は神に約束された地を目指して旅を続ける。

イスラエルの民は幼い頃より神について学び成長する。天地万物を創造した絶対的な神が、なんと自分たち民族を特に注視している、ということを学んで育つのである。
「神は我々と共におられるのだ」という思いと「神は確かに我々と関わってきたのだ」と感じさせられる民族の歴史の学び、神と民族の関わりがイスラエルの民のアイデンティティとなっていた。
そのような神の存在は非常に心強く感じられる反面、いやそれ以上に畏怖の思いを引き起こすものであった、、、はずだった。

日々の暮らしの中で、ありとあらゆる外的な刺激、誘惑を受けながらイスラエルの民は歩んでいる。すると、時には神の力強さを思い知らされてへりくだるときもあり、またある時は神を軽んじて自分たちの思いのままに振る舞うこともあった。神の民イスラエルの歴史はいつもその繰り返しであった。

聖書(旧約聖書)は、このようなイスラエル民族の物語が延々と描かれているが、要するに、神への背反・従順の繰り返しがその内容である。
そして聖書を聖典として読む信仰者、つまり聖書に描かれているThe Godが現代において自分たちにも関わっていると信じる者が、この旧約聖書イスラエルのストーリーを通して気づきを得て、我が身を振り返り、進むべき道、態度を修正するというわけである。

さて、紅海を渡り終えたイスラエルの民はシナイの荒野に入っていた。食べるものもろくにない荒野生活で、神は必要なものを奇跡的に民に用意した。
たとえば、食物として「マナ」と呼ばれるパンのようなものを毎朝、民のそばに不思議に出現させた。
しかし、そこには神のルールがあった。それは「毎朝用意するのだから、必ず1日分だけそれをとって食べなさい、余分にとってはいけない」というものだった(安息日の為の例外規定もあるがそれはここでは省略する)。
このルールはつまり、食べ物に限らず自分(=神)を信じてついてくる者には、その日に必要なモノは必ず用意する、という神の約束を信じられるかどうかテストするものだと思われる。

この物語を読んだ私の感想は「目の前で、事実、奇跡的な食物を用意されているのだから、神の存在はまじまじと感じさせられるのであって、イスラエルの民が神の存在や神のことばを疑う余地はない」というものであった。
ところが結論から言うと、民のうち、少なくない者が蓄えを持とうとして失敗した。

「せっかく目の前に食べ物があるんだ。もしこれを逃したら今度はいつありつけるか分からないぞ、さあ蓄えておこう」
というセリフは聖書には書かれてないが、そんな言葉が聞こえてくるようだ。
神は毎朝用意する、と言っているのに。
常識的に考えれば、そんな荒野にパンが落っこちているなんてことはあるはずないのに。

しかし、「ではなぜ民は神を信じることができなかったのか?」と考えることで発想の転換が起こる。

(神の力、神の存在を)ハッキリ見たり感じさせられても、信じないという決断は起こり得るかもしれない、ということだ。

たとえば、自分の目にしているものが、なんだかぼんやりしている、つまり、それが神によるものかどうか、ハッキリしない、というものについて人が信じられないという態度をとることは理解できる。
ところが、この場面でイスラエルの民はまざまざと神の力を感じさせられているはずなのであるが、ある者は神のルールを軽んじるのである。


さて、私はと言えば、聖書に描かれている神が事実として存在しているのか疑わしく思っている者だ。聖書について言えば、聖書外の歴史的な資料を踏まえると、聖書記事の内容すべてが作り話であるとは言えないとは思える。
だから、仮に自分の目の前で、ハッキリと神がいる、ということが見せつけられたなら、私は神を否定できなくなり、神を肯定する、信じる者となるだろうと考えた訳である。

ところがこの記事から(自分がそのように思えるという意味で)は、「見ても信じない者が起こり得る」ということが言える。

見れば信じられる、という目測は誤っているのかもしれない。
神の姿、あるいは神のおそるべき力をハッキリ目の当たりにしても、信じられない、ということがあり得るのではないか。。