veu point!

おもしろい!と思ったことをあれやこれや記事にしてみます!

参議院選挙 2016 市民意識

政治。
よくわからない、という印象。
人々の生活をより豊かにする為の活動?

社会保障費は膨らんでいる。
高齢者は増える、子どもは少ない。
高齢者をどのように支えてゆくか、という問題は仕事柄、身近に感じる。

財源。

よく、財源の確保が問題、と言われる。
もの凄くよく儲けている企業は税制の優遇を受けているらしい。応能負担、という観点で、そうした企業から適当な税金をきちんと徴収できれば、足りないと言っていた部分を補うことができるらしい。

戦争はしたくないし、しないでほしい。
戦争をしそうな雰囲気なら、牽制したい。
なんで戦争したがるの?
軍備需要で儲かる企業があるから?

平和ってなんだろう。
みんながみんな幸せ、って思える暮らしってなんだろう。個人の自由が尊重される社会?

自民党改憲草案には、個人の自由という表記がなくなっているんだって。
日本がまとまって動く必要の為、いざというときは個人の自由は制限されて、政府の言うとおりにしなくちゃいけない、っていうことらしい。

でもたしかに、みんながてんでばらばらのことを言って、その一つ一つに耳を傾けていたらキリがなくて。
国がまとまってその力を発揮させるために、どこかで一つに統一するような装置は必要なのかもしれない。
…と、口にするとすぐに、でもこんな考え方のせいで、国民は政府を制御不能にし、戦争に踏み切らせてしまったんだ、と思い直してもみる。

あれもこれも同時並行で、どれもそれぞれに大事な要件で、あっちをみてればこっちがグラグラし、こっちをみてればあっちがガタガタし、でもやっぱりどれも現在進行形で解決を必要としていることだから放っておくことはできなくて。

こんな方法はどう?
あんな方法はどう?

完璧な動き方なんて無くて、あるやり方には、必ずどこかに綻びがあって。。

「ひとまず、やってみましょう!」
「実際にやってみないと分からないことがある!」

自分の意見を育ててないもんだから、勢いのある人のことばになんとなく押し切られちゃったりして。

それでうまくいくときは、よくぞやってくれた!ありがたや、なんて思って、失敗した時は、なにしてくれてんねん、なんて憤ったりして。
一番勝手なのはどこの誰。

「冷ややかな政治は、ぼくたち有権者が冷ややかな目で政治家を見てきた結果なんじゃないか。その、謎の下から目線」という言葉を放ったスピーカーのことばが響いてきた。

よくわからないままでもいいや、と思ってた。
なるようになっちまえ、と諦めムードで政治というものを眺めてきた。

だけど、自分の意見が言えない、という状態は好ましいものではないな、と自分で自分のことを思う。

ちょっと思ったんだけど、政治への関わり方には日本人気質がほんとに関係してると思うんだ。
市民が立ち上がる、という経験がほんとにないんだ。
一般市民の権利というものは、戦前だろうが戦後だろうが全部、上から与えられてきたから。

おかみまかせ。

おれがやるよ!と言わない雰囲気。
失敗したら、それみたことか、って。
打たれ弱い。

市民が強くならにゃ、いかんのでしょうね。

夏競馬が始まって。

競馬を研究してみよう!

なんかつまらないなぁと思って過ごしていたのだが、競馬で勝ち馬予想する時間は楽しくてワクワクする感覚を味わっている。

いま、夏競馬が始まっていて。
地方の2歳馬初レースや、獲得賞金500万下の出馬表を眺めるようになった。これまで重賞レースだけを観賞していたのだが、競馬の森をほんの少しかきわけて進んでみるようになったのだ。

明日はG3級のレースがあり、福島でラジオNIKKEI賞、中京でCBC賞が開催される。
先日、この2つのレースの出馬表を眺めながら勝ち馬予想していたのだが、見込みが無さそうに思える3、4頭を消したところでそれ以上絞り込むことができなくなってしまった。ハンデ戦で、うまく馬の走りっぷりをイメージしにくいからだ。なので今回は、しにくいながらも自分なりのイメージをもって観賞してみて、イメージの差異を確かめようかな、なんて思う。
一戦みたぐらいで把握できるわけないよなぁ。笑

 初めてサンケイギャロップを買って誌面の予想を見ていたのだが、JRAのHPで最新出馬表を確認すると掲載されていた枠順とは異なっていて、なんじゃい、とつい口から出てきてしまった。
直前で枠順や出走馬や鞍上が変わるということはあるんですよね。勉強不足でした。
そんなところから競馬観賞を始めているveuでございます。宜しくお願いします。

さて。レースの傾向をチェック!
過去にどんな馬が勝っているか。前走や前々走の成績、さかのぼって4、5レースくらいの成績は、JRAの出馬表で確認することができるので、レース傾向の該当馬に一応目を付けることができます。それから当たり前くらいの情報だったら、ネット上のあちらこちらのブログで確認する事ができます。

強い馬が何番に入っているか確認したら、その隣りの馬たちの脚質を気にします。その強い馬に対して先行するのか、後ろからくっついていくのか。 

上位人気の馬に対して、実績からあまりにも実力差が感じられるような下位人気の馬は、スタートダッシュの時点でなかなか前に出られないような気がします。
というのはスタート直後にひとまず人気馬はザッと前に出て下位人気馬を牽制するイメージがあります。いくら強いとはいえ、あまりにも後群には位置取りたくないのでは、と考えます。せめて真ん中ぐらいで動きがとりやすいところをとろうとするでしょう。

その後で人気馬が警戒するのは同じく上位の人気馬と人気中盤くらいの馬の動きでしょう。下位人気馬とは実力差があるので、終盤で彼らがどんな動きがあろうとねじ伏せられる余裕を感じますが、相手が上位人気や中盤人気の馬の場合、下手に自分が動くと最終結果に響くおそれがあります。

当たり前のことですかね!笑レース展開についてとりあえずこんなことを考えています。(考えているうちに入らん!)
そんな考えをベースに、勝ちそうな馬の両隣りを見て、実際に勝ち馬が勝ちやすそうな馬の並びになっているのか、それとも苦戦を強いられそうな並びになっているのか想像してみます。

人気中盤馬は上位馬にタダではやられない動きをするでしょう。実力差があるのだからまっとうにやったら勝てない可能性が高い。
だとすると、中盤馬は巧みな進路阻害戦術を展開するであろうことが見込まれます。あまりに荒いやり方だとファウルになるでしょう。その展開の仕方やパターンは全然勉強不足ですが。。

強そうな馬が内側と外側にそれぞれ配置されているのか。
内側に固まっているのか。外側にいるのか。
人気下位だけど思いっきり逃げ脚の馬がいるのか。
中盤くらいの馬は勝つためにどんなふうに上位人気馬に勝とうとするのか。

レース展開のイメージを膨らませてみて、自分のイメージと、気になる馬のこれまでの勝ち方が近ければ着順予想に確からしさが加味されます。
レースイメージに対して、騎手の上手さはどうなんだろう。上手くさばけるのかな、。

レース展開がイメージしにくいレースは無理矢理な投票になってしまいます。
自然とレース展開が浮かぶようでなければ投票しづらいな、というのが感想です。

とか、能書きを垂れていますが、これまで見たレースは50にも満たない者です!泣
なんにもわかっちゃいない、と言われれば、まことにその通り!

自分なりの競馬予想の当たりを少しずつ積み上げていきたいな、と思っています。レース展開を予想通りに当てることができれば気持ちいいんですが、そんな簡単じゃない。笑
当たらなかったらどうしてそうなったのか反省してみることもこれまた面白いと思っているところです。
レースの特徴や馬、騎手の情報などを整理したり、もんもんと想像を働かせることは頭の体操にもなるよ、なんて介護の業界に売り込めたりするだろうか。

16'宝塚記念 反省

今年16'春天から興味を再燃させた競馬初心者veuでございます。なかなか思い通りにならない感じ、でも学ぶことで少しでも結果を向上させることができる感じが心地良くて。
自分の中ではちょうど麻雀にハマる感覚と似ていると感じております。

そんな初心者の勝ち馬考察。
実績もないやつの勝ち馬考察。
笑わせています。
誰得?って、学びを蓄積する俺得です!

さて、興奮覚めやらぬ、16'宝塚記念
1~3着は次の通りでした。

16マリアライト
3連単は262倍

まさに、女傑あらわる!

レース前の展開予想はこんな感じでした。
3キタサンブラックはとりあえず先行して抜けてゆく。
2アンビシャス、5シュヴァルグランは共に4歳。これに対し、6歳馬の6ラストインパクトと7ラブリーデイが内側にプレッシャーをかけてゆく。
大本命の9ドゥラメンテは、10カレンミロティックの先行によって、スペースを得ながら右に左に視界開け気味の走り。

馬場は昨日の雨。今日はバッチリ晴れたけど渇き切らない稍重。前の馬の蹴り上げで泥が跳ねてうざいかな。やっぱり後攻は不利な感じか。だけど大外16マリアライトは影響なく走る走る!
最終的にはドゥラメンテが活路を見いだし、驚異の追い上げをみせてフィニッシュ!

ぼんやりとですが、1着はドゥラメンテ固定
2着、3着に、3キタサン、6ラストインパクト、7ラブリーデイ、11トーホウジャッカル、16マリアライトをハメるフォーメーションを予想しました。


実際のレースは。。
なんとなく、イメージはあってたみたいで。

だけど終盤。3コーナー回ったあたりで、ドゥラメンテは内に封じられてて!
おいおい、抜け出せるのかよ~と思ってたら、4コーナー明けから無理やり方向切り替えて疾走!前方へ抜け出てグングン迫る!迫るっッ!

きっとすげぇ馬いっぱいでちょっと焦り気味の先行キタサンブラックはラストはバテちゃうだろうなぁと思ってたんだけど、粘る粘る!!

そんでずっと自分の道を得て自分のペースで走ることができてたマリアライトが最後の一踏ん張りで、駆ける!駆けるっ!


ラス前でキタサンを差したマリア!
その二頭にえぐいスピードで迫るドゥラメンテ!追いつくのか!?追いつくのかーっ!?

そしてーっ!!フィニッシュー!!
結果は!!
まばゆい輝き!マリアライト!!
あと10mあったらドゥラメンテが差してたと思うんだ!!
っくーーっ!
負けたけどさ!坂道もあるのにあの状況からあの追い上げは次元違く感じたぞ!
すごいよドゥラメンテ

だけどそんな興奮の宝塚記念は女子の勝ち!
男子諸君は悔しくてたまらん!むぐぐ。。

推測だけど、おそらく、名前もかわいいし、女の子で競馬始めたばかりで、とりあえず牝馬だし、そこそこ強いみたいだし、って言って、マリアライトを一着軸にして、
「あたっちゃったー!」と叫んでる子がいたんじゃないか、と思うんだ、。
でそんな彼女を連れてきて自分は外れて「なんじゃそりゃ~」ってしょげてる彼氏?の映像が浮かびました。そんなマンガみたいなレースだったと思います。

そこらへんは、瑛太有村架純のCM出演でイメージのクリーンアップ!若者のあいだで盛り上がって、益々にぎわいをみせるんだろう、と考えさせてください。

熟練、玄人のおっちゃん達も、うるさがらずに暖かい目で見守って、そっとしといてほしいと思います。。(誰やねん、お前。笑)

以上、、初心者veuの勝ち馬予想、宝塚記念反省編でした。

信仰について②

神の姿、神の力をハッキリと目の当たりにした場合、人は神の存在を信じるようになるのでは、と考えたのだが。。
しかしそれでもなお「信じられない」ということが起こり得る、ということを前回の記事で述べた。

その場合の「信じられない」状態とはどういうものだろうか。

前記事で言う「ハッキリ表された神の力」とは「荒野の地表に自然発生するはずのないパンのようなもの(=マナ)が毎朝発生するという事象」を指している。 

補足すると、荒野を旅したイスラエル民族は諸部族合計で何十万人と見なされており、これらすべての者が、そのパンを十分食べることが出来た、と聖書本文で記述されている。…普通ではないことが起こっていることは分かる。

この物語の読者が、聖書記事そのものを胡散臭いと考える心情は当然理解できる。
理解に苦しむのは、仮にその事象が事実であったとして、その様子を実際に目の当たりにしたイスラエルの民の少なくない者が、なお神の力を軽んじ、結果として神から罰せられた、という聖書物語の進行である。

さらに言えば、聖書物語は同じイスラエル民族にスポットを当て続け、神がイスラエルに奇跡を体験させ続ける様が描かれているのだが、やはり同じように奇跡を体験したはずのイスラエルがなおも神に反逆する様を描き続ける。

イスラエル民族の中にも個人差はあるようだ。ある者は神の奇跡を経験して感動し、神に倣う者である。またある者は奇跡を経験してなおも神に背反を示す者である。しかし聖書物語を通して言えることは、イスラエル民族は結果として民全体が神への背反を繰り返しているということである。

つまり、これらのことから言えることは、奇跡的な体験の有無は一時的に人を神に結びつけるかもしれないが、人が絶対的に神を認めて従順するようになる決定的な鍵にはなっていない、ということである。

さて話を戻すと、なぜある人は神の奇跡を経験してもなお「信じない」という心理状態に成りうるのか。
私がもしも神の奇跡を経験させられて、神の力をありありと見せられたなら、もはや信じるほかない、と考えるだろう。
ところが例の場面でイスラエルの民の一部は神に示されたやり方ではなく、自分たちの思う通りに行動した。神を軽んじたのだ。

ある意味、この者たちは神に甘えた、ということなのではないか。
「神は確かに我々と共にいて下さるようだ!(=神の力の認知。パンの出現は神の技と認めている。)このことで神は我々にあれこれ言ったようだが、結局は我々をかわいがっているのだから、いくらかルールをはみ出したところでどうということはないだろう」
と考えたかもしれかい。
神の非常な力は認めているが、しかし絶対者としての神の意向については軽視し、神から大目にみてもらえるとタカをくくった。

または、
「なぜ『毎朝だけパンをとってもよい、余分は残すな』というのか、その意向がよくわからない。せっかく我々に与えてくれたものなのだから、かえって余らせるということは神に対して無礼ではないか。神が我々に与えてくれたものを大切に取り置きし、活用しよう。神も我々のこのようなリアクションを分かってくれるはずだ」
と考えただろうか。

仮にこのような考え方を民が持っていたのだとすると、それは単純な離反とは言いづらい。つまり、神は信頼に足る存在であるということは認めた上で、神の意向を自分勝手に読み間違えて、神からすれば見当違いのことをしでかしている、という解釈だ。

神を「信じない」わけではなく、「信じているつもりで勝手なことをしでかす」
あからさまに神に反抗しようとしたのではなく、見当違いの行動の結果、それを神から背反と責められてしまった、という具合だ。

良かれと思ってやったことが裏目に出てしまったというような話。
イスラエル民族は幼い頃から天と地を創造した絶対的な神について学び聞かされるのであるから、そう簡単に神への信仰を翻すものではないと思われる。

つまり、神が発した命令に対する誤解およびそれによる方向違いの行動。
このことを神はよしとせずに罰しているのではないだろうか?

人は神の命令について余計な勘ぐりをせずに発せられたそのままに受け取る必要があるものと思わされる。

それならば、いったい信仰とはなんであろうか。
もしも言われたことについて自動的に応じることがよし、とされるなら、もはや人間は言われたことだけをこなすロボットとなったほうが神にとって便利で都合が良かったのでは、と思ってしまう。

総合的に考えてゆくと、人間は事実、ロボットではないし、未成熟なら未成熟なりに頭をはたかせて意志決定し行動している存在だ。
人間の知性があまりにも未熟であることは創造主である神が知るところであろう。
しかし神が人間を創ったのだ。
神が人間に求めている信仰とはどのようなもななのだろうか。

信仰について①

旧約聖書では神の民としてイスラエルの人々にスポットライトが当てられる。彼らが日々の暮らしの中でいかにして神が発する言葉に聞き、倣ってゆくか、その様子が描かれている。

創世記に続く旧約聖書第二番目の書物出エジプト記では、指導者モーセイスラエルの民を引き連れて紅海を渡る有名な場面が描かれている。
その後、イスラエルの民は神に約束された地を目指して旅を続ける。

イスラエルの民は幼い頃より神について学び成長する。天地万物を創造した絶対的な神が、なんと自分たち民族を特に注視している、ということを学んで育つのである。
「神は我々と共におられるのだ」という思いと「神は確かに我々と関わってきたのだ」と感じさせられる民族の歴史の学び、神と民族の関わりがイスラエルの民のアイデンティティとなっていた。
そのような神の存在は非常に心強く感じられる反面、いやそれ以上に畏怖の思いを引き起こすものであった、、、はずだった。

日々の暮らしの中で、ありとあらゆる外的な刺激、誘惑を受けながらイスラエルの民は歩んでいる。すると、時には神の力強さを思い知らされてへりくだるときもあり、またある時は神を軽んじて自分たちの思いのままに振る舞うこともあった。神の民イスラエルの歴史はいつもその繰り返しであった。

聖書(旧約聖書)は、このようなイスラエル民族の物語が延々と描かれているが、要するに、神への背反・従順の繰り返しがその内容である。
そして聖書を聖典として読む信仰者、つまり聖書に描かれているThe Godが現代において自分たちにも関わっていると信じる者が、この旧約聖書イスラエルのストーリーを通して気づきを得て、我が身を振り返り、進むべき道、態度を修正するというわけである。

さて、紅海を渡り終えたイスラエルの民はシナイの荒野に入っていた。食べるものもろくにない荒野生活で、神は必要なものを奇跡的に民に用意した。
たとえば、食物として「マナ」と呼ばれるパンのようなものを毎朝、民のそばに不思議に出現させた。
しかし、そこには神のルールがあった。それは「毎朝用意するのだから、必ず1日分だけそれをとって食べなさい、余分にとってはいけない」というものだった(安息日の為の例外規定もあるがそれはここでは省略する)。
このルールはつまり、食べ物に限らず自分(=神)を信じてついてくる者には、その日に必要なモノは必ず用意する、という神の約束を信じられるかどうかテストするものだと思われる。

この物語を読んだ私の感想は「目の前で、事実、奇跡的な食物を用意されているのだから、神の存在はまじまじと感じさせられるのであって、イスラエルの民が神の存在や神のことばを疑う余地はない」というものであった。
ところが結論から言うと、民のうち、少なくない者が蓄えを持とうとして失敗した。

「せっかく目の前に食べ物があるんだ。もしこれを逃したら今度はいつありつけるか分からないぞ、さあ蓄えておこう」
というセリフは聖書には書かれてないが、そんな言葉が聞こえてくるようだ。
神は毎朝用意する、と言っているのに。
常識的に考えれば、そんな荒野にパンが落っこちているなんてことはあるはずないのに。

しかし、「ではなぜ民は神を信じることができなかったのか?」と考えることで発想の転換が起こる。

(神の力、神の存在を)ハッキリ見たり感じさせられても、信じないという決断は起こり得るかもしれない、ということだ。

たとえば、自分の目にしているものが、なんだかぼんやりしている、つまり、それが神によるものかどうか、ハッキリしない、というものについて人が信じられないという態度をとることは理解できる。
ところが、この場面でイスラエルの民はまざまざと神の力を感じさせられているはずなのであるが、ある者は神のルールを軽んじるのである。


さて、私はと言えば、聖書に描かれている神が事実として存在しているのか疑わしく思っている者だ。聖書について言えば、聖書外の歴史的な資料を踏まえると、聖書記事の内容すべてが作り話であるとは言えないとは思える。
だから、仮に自分の目の前で、ハッキリと神がいる、ということが見せつけられたなら、私は神を否定できなくなり、神を肯定する、信じる者となるだろうと考えた訳である。

ところがこの記事から(自分がそのように思えるという意味で)は、「見ても信じない者が起こり得る」ということが言える。

見れば信じられる、という目測は誤っているのかもしれない。
神の姿、あるいは神のおそるべき力をハッキリ目の当たりにしても、信じられない、ということがあり得るのではないか。。

ふと根源を考えたくなり。

はじめに、神が天と地を創造した。(創世記一章一節)

創世記の始めの一節、つまり、聖書の始めの一節は、この一文から文字通り、世界を描き出す。

ユダヤ教キリスト教イスラム教は、数ある宗教の中でも、一神教と呼ばれ、多神教という考え方と対比される。

一神教とは、つまり「神」と呼べる存在は唯一である、というものだ。
「いろんな神々がいる中で、とある一人の(人じゃないけど)神が、この宇宙を創造した」ということでもない。
The Godは絶対の存在である。

人間社会に対するユダヤ教の教えの何たるか、とか、同じくキリスト教イスラム教の教えの何たるか、という議論がされる以前に、まず世界とは何ぞ、という前提・前置きがなされるのだ。

この記事では、「宇宙の始め」ってどんなんだったの、という素朴な好奇心をくすぐる材料として、聖書の一節を引っ張ってきた。
人間についてかくあるべき、と語り出す前の段階にも聖書は言及しているのだ。
(とはいえ読み進めてゆくとすぐに人間に対する神の命令が下されるのだが。笑)

すべての始まりの前に、まずThe Godは存在していた、という概念が脳内に形成される。
「The Godの、さらにその前の存在は?」と考え始めてもそこから先に進めなさそうだ。

The Godという絶対存在が、天と地を創った。天と地、つまり宇宙の万物を創った。
時間、空間も、The Godの創造物。
万物以前に「いた」とされるThe Godは、「万物」の中に入らない。ということは、「万物」とは、「The God以外のすべて」という定義がなされる。そして自動的に、The Godは時間外で存在可能というわけだ。
時空を越えた存在、それがThe God.

しかしこの一文を読んだだけでは、この神が唯一の存在であることは確定できまい。
二節で、「神とは、実は集合体であり、A神、B神、C神、D神、E神が合体した姿である」と続くかもしれない。

創世記の記者が、この「創造神」を唯一絶対の存在として記している様子は間もなく明らかになる。


「はじめに、神が天と地を創造した」


世の中にはありとあらゆる物語があるが、
聖書以上に「大きく出たなっ!」と思わせる書き出しは見つかるまい。

これ以上ないスケールで描き始めた物語は果たして収集がつくのか!?
いったいどんなドラマが始まり、そして結末を迎えるというのだろうか。

ネスレコードのベストセラー書籍は聖書である。
長い年月をかけて人々の暮らしに多大なる影響を及ぼしてきた聖書。

キリスト教の神父や牧師を介すれば、聖書について、整った全体図や体系を得ることができるだろう。
しかしその解釈には、彼らが意識的にか無意識的にか、彼らの属する組織の恣意が込められているのではないか、と懸念を広げてしまう。
素朴に聖書に興味を持つ者であっても、まったく、そのことをビビってしまうわけだ。
予備知識なしで臨む聖書はどうなるか。

神とは何者なのか。人間とは何者なのか。
聖書は我々に何を語るのか。

問題自体より向き合い方

自分を肯定できると幸せだ。問題が全く無い状態が幸せなのではなくて、問題に向き合っている自分の姿を自分で認められるとき、心は健康であると思う。
問題はそこら中に転がっている。
自分の生活に身近な他者との人間関係、それからもっと広域で社会的な事項について自分がどのように接するべきかという問題がある。
答えを用意せずに放っておくことができる問題もあれば、答えに向かっていかなければ自分の生活が脅かされるような問題もある。

心地良い生活を送るためには、それらの問題について自分なりに納得できる答えを得る必要があるんだ。
それがうまくいかないとき、自分の中で不快感が広がり不安や焦りにとらわれるようになる。

問題、という言い方はどこか気を重くさせる。重い腰を上げなければならない、というような気分になる。似ている言葉でも、課題と言うともう少し能動性が加味される気がする。

あらゆるところに課題は転がっており、自動的に自分に絡みついてくる課題もあれば、あえて自分が課題として捉えているものもある。

それら一つ一つにどのような優先順位をつけて向き合っていくかは自分次第。
それは自分の自由。

大切なのは課題をクリアしている自分というよりも、次々に現れる課題にどのように向き合い、そしてその向き合い方に納得している自分がいるか、ということではないだろうか。