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veu point!

おもしろい!と思ったことをあれやこれや記事にしてみます!

人は

「人はどんな困難をかかえていても、幸せを見つけることができる」

 

自閉症の東田直樹さんの言葉。

先日、NHKのドキュメンタリーを見終えたところ。

再々放送だったのかな。

 

アメトーク見て笑って、サッカー見るつもりで。わずかに時間があったからチャンネルをまわした。そしたら引き込まれて、サッカーそっちのけで最後まで見てしまった。

みて良かった。

 

東田直樹さんは自閉症をかかえているが、お母さんが作った紙のキーボードを使うことで自分の考えを相手に伝えることができる。

このキーボードがあることで、分散していきそうな自分の思いや考えをつなぎとめて、連なる言葉にすることができるのだという。

このとき独特の間合いがあるが、しかし確かに意味の通る言葉を彼は語る。

 

私は自閉症への誤解があった。

うん、とか、やだ、とか、うれしい、とか、単語でなんとか思いを伝えることはできても、繋がった言葉で会話ができるとは知らなかった。そして、知性についても、発達障害があって、いわゆる知恵遅れをかかえている、と思い込んでいた。急に飛び跳ねたり奇声をあげるのも幼児性の表れだと思っていた。

でもそうじゃなかった。

他者と会い、ふいに相手から離れて窓から外の景色を眺めたり、相手からそっぽを向いたりするけれど、相手のことはしっかり見ているし、そして相手の言葉を聞いて考え、感じている。

 

東田さんは、パソコンで文章を作成することができる。この文章を通して、彼自身の思いを、よりハッキリと知ることができる。

自閉症をかかえている自分がいろいろなことにどう感じ、どう考えるのか。

 

そのような考えや思いをつづった本が、出版されていて、これが翻訳もされて、日本のみならず、世界中の多くの自閉症をもつ子どもの親に、大きな助けを与えるまでになっていることを知った。

 

彼を番組で取材したディレクターはその後、自身が癌を患い、そして治療を成功させて、再び元のような生活に戻れるようになった。

しかし、いつまたガン細胞が再発するか分からない、という状況で月に一度、定期検査を受けるようになった。まったく元の生活通りではない、それまでなかった不安を覚えながら生きることになった。この経験を得て、ディレクターはまた東田さんに会いたいと思った。

 

単に取材対象としてではなく、ハンディをかかえるようになった自分にどのような言葉をかけてくれるか、東田さんに尋ねたのだ。

これからどんなふうに生きていけばいいだろうか。

東田さんは目の前で数十秒頭を抱えて考えたあと、東田さんは彼に告げた。

それが、この文章の冒頭の言葉。

「人はどんな困難をかかえていても、幸せを見つけることができる」

 

 

番組を見終えて、番組のあらすじをまとめたこの文章をつづるのに一時間かかった。

インパクトを受けたので、形にして残しておきたいと思った。

MRI検査を受けた東田さん。

脳内には考えることと、言葉にすることをつなぐ神経伝達の筋があるのだそうだが、その筋の数が、健常者より少ないのだそうだ。

そして、それを補うかのように、脳内の相手の意図をくみとる分野が健常者よりも大きいのだそうだ。

それはつまりどういうことか、ということが、彼の文章によって知らされるのだ。

 

彼は桜をみて、きれいだな、と感じるがそのうちに胸がいっぱいになり、じっと見ていられなくなる、と言う。だけどやっぱり桜の花が大好きだという。

他の子のエピソードでは、言葉は伝わらないけど気持ちが伝わるから動物が大好き、ということがあった。

 

自閉症の方は、健常者よりも、もっと敏感に、鋭く感じる力があるのだと思う。

ぼくはこれが先天的なものではなくて、会話の成立が難しいからこそ、相手の表情や、そのものの姿から多くを読みとろうとする力をつけようとした結果なのだと思う。

 

 

ぼくは目の前にいる相手・事象に思い巡らし、めいっぱい想像し、感じているのだろうか。

うわべだけ合わせて本気で向き合うことを恐れる。傷つくのが嫌だから。

東田さんは他人の目線が怖いと言った。

「刺すような!…視線」と。語気を強めてこのように話すそぶりが印象的だった。

 

ブログを書く人は必ず考えている。人はどんなふうに自分の文章を、自分自身を見るだろう、って。

傷つくのが怖いから書かない人もいるはず。相手に伝えない人も。

 

だけど、東田さんは自分の言葉を発信した。

アメリカで講演に呼ばれたときも、飛行機という閉塞的な空間や、慣れ親しみのない見知らぬ環境、大勢の目線、そして自分自身の無意識的な集中力の分散という、辟易する嫌悪感を克服して彼は自らを語った。

 

まったく、感動した。

もはや、ある面からすると「自閉」症とは言えないだろう。彼は自己を開示している。

そのように打ち明けてくれる勇気に感動するんだ。

 

むしろ、暇さえあればスマホを眺めて自分の世界に入り込み、他者への想像を停止させている自分こそ、ある意味で自閉症と言えるのではあるまいか。

 

便利な時代になった。

想像しなくても、検索して調べるとすぐそれっぽい答えをネットで得られる。

想像しなくても、メールすればすぐに相手から返事を得られる。

すぐどうにかできる、という環境を得たことで、私たちはかえって相手・事象についてじっくり想像する、という時間を持たなくなってしまったのではないだろうか。

効率化は確かに利便を生むが、果たしてそれが人の世に最も必要なことなのだろうか。

絶えず、情報の波にのまれ、流され、効率化を求めさせられ、それがいいものだと思いこみ、腰を据えてじっくり感じる、考えることで得られる豊かさをないがしろにしてしまっているのではないのか。

山ほどあるコンテンツから、なんとなく自分の楽しめそうなものを選び、飽きては取り替え、つぎのものに手を伸ばす。

瞬間的に自分を満たしてくれるものに飛びついて、それらをとっかえひっかえ繰り返して生きているのだと思わされる。

 

これでいいのだろうか、と自分の姿を俯瞰した結果、焦燥感に駆られて、「これぞ真理」と謳うよく分からない宗教にはまりこんでしまうこともあろう。

 

話が膨らんでしまったが、冒頭の林田さんの言葉には力がある。けれど、絶対的ではない。果たして、本当に、どんな困難の中にあっても幸せを見つけだすことができるのか。

この言葉の確かさを彼自身の完結する人生の中で確かめていくことが、これからの彼のチャレンジなのだろうと思う。

そして彼の言葉、生き様に感動を覚えたぼく自身も、彼の言葉を心に留めて目の前にある生活を生きていきたい。

東田さんの活躍、その生き様にますます期待しています。

おれはあいつじゃない!

「あなたと私は違うんです!」と言った首相を思い出す。

 

おまえとおれは違う!

あいつとおれは違う!

どうしてそんなに鼻息荒くするのかな。

焦ってるのかな?図星かな?

自分の苦しいところを言い当てられて悔しいのか。

それとも奮起か。

あいつのようにはしないぞ、ならないぞ。

あいつはバカ、おれは賢い。

 

うっとうしいわ!

「低い低いと思っても高いのがプライドと尿酸値ですな!」って博多華丸・大吉の漫才を見てめっちゃ笑った。

そんで、こんなとこに書いちゃうぐらい大好きでずっとフレーズが頭に残ってる。

尿酸値どうのはいいんだけど。

プライドが高いことをいつまでも認めきれず下手こいてる自分のやましさを今日も憂う。

 

ghost and lady

「またつまらない日を過ごしてしまったな」

今日という1日を浪費する。

「なにやってんだろう、おれ…」

「こんなんじゃだめだろ」

怠けて。諦めて。

情熱を灯し続けられずにまた同じ所へ。

そしてポジティブになれる立ち位置探して。

こんな文章を綴ってはまた反省してるフリさ。わかった→←わかってない。繰り返し。

 

 

それでも。それでもね。

良作、力作と呼ばれる作品に触れるとその熱量に引き込まれて、自分なりの感覚が引き起こされてさらに研ぎ澄まされるような経験を持つ。つまり感動する。

その実、自分は一歩も自分の目の前にある現実において進めてはいないんだけど。

…やめたくてもやめられない。鬱陶しい前置きを並べるのは「」

君の名は。を見て。

新海誠の最新作『君の名は。』の映画を見てきました。

コマーシャルを見たときに直感で「これは良作だ!」と思い、公開したら映画館へ見に行こう。と思っていたのでした。

果たして、見終わった後の清涼感は気持ち良いものでした。実は私は映画を見るより先に角川文庫の小説「君の名は。」で物語に触れていました。小説を読んだ時も身体を突き抜ける清涼感(爽快感と言うには、ちょっとニュアンスが違う気がする)を持ったのでした。

結論から言って、心地良い映画です。

人と人が出会う不思議、人が人を想う不思議、温かな人間関係とその心理描写に心をほぐされました。とてもシンプルなんです。

可能な限りややこしい設定は排除されているように思えます。登場人物の心の成り様に深く迫るということはなくて、先述のとおり、人と人が出会う不思議、想い合う不思議をさらっと見せてくれています。

いたってシンプルな物語なのに、なぜだか味気ないとは感じさせない力強さがあります。

単純明快な物語が、かえって複雑怪奇な現実に身を置き生活している私たちの騒がしい心にまっすぐに迫ってくるという感じです。

一方で都会で生まれ育った人が持つであろう田舎の雄大な自然へのあこがれ、また一方では都会の煌びやかさを持つ人のあこがれの念をくすぐり、それを余計な蒸し返しをせずにシンプルに見せてくれる物語は嫌らしさがありません。

 

日常生活において「普通である」ということに飽きてくると、人は刺激を求めて少しひねったモノの考え方や皮肉めいたモノ、多少いやらしい表現を愛でるようになるというふうに思っていますが、この作品は飽くまでもまっすぐであること、シンプルであることの力強さをあらためて思い直させてくれます。

自分の心がやさぐれてしまっているなぁ、とか迷い込んでしまっているなぁと思い悩んでいる人がいたら、ぜひ劇場に足を運んでみるといいと思いますよ。

 

小説もさらっと読めますからオススメです。

ポケモンgo プレイ日記2

ようやくレベル20に到達。

しあわせたまごの効果的な使い方にもっと早く気がついていれば、こんなに時間はかからなかったろうに。

効果的な使い方とは、進化後系のポケモンをあえて捕まえずにいておいて、飴で進化させた時に初めて図鑑に登録となるようにしておくことだ。

初めて図鑑に登録される時、ボーナスexで500pをもらえる。

つまり、図鑑未登録の進化後ポケモンがいるときに、しあわせたまご(30分間もらえるexが2倍になる道具)を使って、その種(進化前)ポケモンを進化させると、「進化」ex500pt +「図鑑登録」ex500ptが、さらにそれぞれ二倍になって、合計2000ptがもらえるのだ!

このやり方を早くに気づいていれば、もっと楽にレベルアップできたのに、というわけだ。

まだ始めたばかりのプレーヤーさんは、ぜひこのやり方でレベルアップをねらってみてくださいね。

 

さて、前回の記事に引き続き、イベントを思いつきましたよ。それは『合成写真コンテスト』。プレーヤーが撮ったオリジナル写真を投稿、観覧、評価できるシステムを作ってもらって「いいね!」の数が多いプレーヤーに経験値や道具、ポケモンのプレゼントが与えられるような企画です。

友達のプレーヤーが撮った街中のポケモン戦闘の合成写真を見たときに思わずおもしろくて笑ってしまったので、こんな企画があってもいいなぁと思って提案します。笑

 

なんていうか、とりあえず今のところ、とにかくcp値が高いポケモンが単純に強い、という状態なので、さらにいろいろな楽しみ方が期待できるように、アップグレードされていけば、ゲームの奥行きが広がってますますおもしろくなるなぁと思います。

 

ポケモンgoプレイ日記1

GBの初代ポケモン世代な私。

7/20(だっけ?)にアプリが出てから諸事情ですぐには始められず、ようやっと参戦(8/3)。もうすでに各サイトで攻略情報も多彩に掲載されている状況なのね。

 

ドラマIWGP池袋ウエストゲートパーク)もドンピシャにハマってた世代ですが、まさかポケモンgo狩り場として西口公園がこんなに人を集めているとは。。。

そうでなくても、あちらこちらでスマホ覗き込んでウロウロしている人の多いこと。

こりゃあ事故が多くなるのも納得です。

事故予備軍(危ないところで難を逃れた人)はそれ以上の数でしょう。

プレーヤーじゃない人からしてみれば異様としか思えない最近の街中の光景だということは、プレーヤーだけどわかります。

まずは注意喚起。

事故っちゃしょうがないよ、安全に楽しみましょう!

 

さて、始めてから5日ぐらい立つのだけれど、もうすでに飽きてきたなあ。もうちょっとハマり要素があってもいいと思う。

ジム戦は多少格ゲー要素があるけど、それこそスマブラみたいな画面に切り替わってコマンド技の応酬があってもいいなあ。今はただCPの高いポケモンが勝つ(そうでもないんだけど)けれど、無差別級だからね。

階級別の設定になってもおもしろいと思う。

 

そこらへんはアップグレードで改良されていくのかな。

ミニゲームの始まるポケストップがあってもおもしろいよね。マリオパーティみたいな。

 

後はドレッサーコンテストとかさ。プレーヤーの顔とか衣装とか選べるんだから、ポケモンの衣装があってもいいでしょう。それで、投票システムとか入れてね。品評会。

 

捕まえたポケモンのサイズにばらつきがあるみたいだから、格闘ポケモンオンリーの異種格闘技戦とか。ワンリキー体重xs、体長xsはスーパーフライ級とかさ。

じゃないと、とにかくCPの低い種ポケモンは飴にされちゃうだけだよね、今のところ。

 

畑のある生活

原発反対を唱える久保田(仮)君。
久保田君は現代社会の仕組みに違和感を持っている。

現代社会の仕組みは大量生産、大量消費。
その仕組みによって、私たちの生活はより便利になっている。その仕組みによって、より多くのモノが私たちの目の前に並べられ、ぼくたちは多く与えられている選択肢から自由に選び、自分の生活を潤し彩ることが出来る。
しかしその陰で多くの無駄が生まれている。
選ばれなかった多くのモノが活用されずに廃棄される。
大量生産、大量消費の社会を成す為には莫大なエネルギーが必要とされる。莫大なエネルギーを供給する為に必要とされるものが発電所である。火力発電、水力発電風力発電太陽光発電、そして原子力発電だ。

原子力発電は、日本において火力発電の次に多い発電方法である。しかしこの発電方法は特にリスクがあると考えられている。それは、使用済み燃料の処分場所を確保しなければならないこと。そして仮に発電所が災害に見舞われた際に広範囲に及ぶ人体への影響、土地の汚染が懸念されることだ。

このリスクを抑えるマネジメントがきっちりできるなら原子力発電も「有り」とする考えがあり、他方でマネジメントどうこうではなく、大量生産、大量消費社会から脱却しようではないか、と考える者が原子力発電に反対している。

久保田君の立場は後者で、この大量生産、大量消費の現代社会の仕組みを根本的に見直す必要があるのではないか、という視点から原発反対の意を投じている。

しかし、久保田君は悩んでいた。
実際の自分の日常生活を見返してみると、まるまる電力会社から供給される電力に頼りきっている自分の暮らし方が目に付いたからだ。
もちろんそのような中でもエコロジカルな暮らし方を志しているつもりであり、少しずつ自分の理想に実生活を近づけていく気概を久保田君は持ち合わせていた。
しかし、何かが久保田君の中で引っかかっていた。

それは、「結局のところ、お上から下る理想的な指示、法律の整備を待たなければ生活を変えることはできないのだ」と思い込んでいる自分の態度であった。

ある時、久保田君は考えた。
「ほんとうにそうだろうか?理想的な生活の実現の為には他者の動きを待つことしかできないのか?先んじて手にすることはできないのか?」

そして久保田君は思い立った。
もともと頭の隅に置いていたイメージ。
「自給自足」の第一歩。
畑で作物を育てる、ということを始めてみたのだ。

気の置けない仲間とゆるく踏み出したその歩みは、その歩みを少しずつ進めるほどに、彼に確かな実感をもたらすことになった。
「これだ、。これだ!」

畑は田舎町で放棄されていた所を借りた。
畑の持ち主と会話を重ねながら、地元の人々との交流を深め、情報を集めながら、そして気心知れる仲間と共に耕すところから始めていった。
普段は都心で仕事をする久保田君。
仕事が休みの日に、計画を立てて車を飛ばし、自分たちの畑に出向いた。
しかし予定通りにはいかなかった。
丸一日草むしりで終わることもあった。
想定外の出来事の連続で身体はへとへとになったが、むしろ彼の気は充実していった。
自分の内から湧き出てくる「やってみたい」という好奇心と、実際に本質的に自分が向き合うべき課題とが重なっていたからだ。

「やらなければならない」という重苦しい使命感から始めなかったことが幸いだった。
「やってみよう」という自発的、能動的姿勢が、クワを振る腕を軽くしていた。なにより共に連れ立った幼い子どもが自然の中で伸び伸びと過ごしているのだ。自分から何を言うでもなく、子どもは自然から発見し、自然から学び、自然から感じ、そして自然に呼応している。。
彼は自分が追うべきライフスタイルを見出だし始めていた。

「仲間が増えたらいいな」という思いから、彼はSNSを使いながら畑仲間を募集した。
すると、あちらこちらから思うところのある者が集まってきた。
皆、自分から、一からは始められないと思っていた者だった。
意外にも仲間は集まり、それぞれが思い思いに自分の育ててみたいと思う種を植え、そして育った作物を喜び、皆で共有してみた。
自分の食べるものを自分で生産する喜びを味わった。しかもそれはまったく自分一人だけで行っているものではなく、自由な思いから畑に飛び込んでくる仲間と共に味わうものであったから、喜びはなおさら広がった。

畑を始める前から、共に作る喜び、共に味わう喜びを期待する想像力は持っていたつもりだ。
しかし、頭で考えていたのと、実際にやってみるのとでは、やはり実感が異なることを思い知らされたのだ。

この経験を得てから久保田君はますます理想的な政治とは何か、という問いに対して腰を据えて向き合うことができるようになった。
自分の考える理想的な暮らしを追って、実際にそれに着手したからだ。だから個人レベルで出来ること、国家レベルで形成する必要のあることについて感じ取る力が養われ、何を政治に期待すべきか、何を自分で受け持つべきか、そのような考え方ができるようになったのだ。

畑のなかったこれまでの暮らし方に比べて、畑のある生活は疲労が積もるようだ。
しかし精神的な疲労はかなりのところ軽減された、と久保田君は語ってくれた。

「いまのおれの暮らし、ほんとうにこれでいいのか?」

ぼんやりと悩みを感じながらも、代わり映えのない毎日に鬱屈としている人も多いのではないだろうか。

僕自身はといえば、いまだに自分の理想すら図れずにいる者だ。

……おっと、。心のスキマに付け入る輩はお呼びでないぜ。

この話をしているとき、久保田君はあんまりハシャいでなかった。静かに。けれどその目に熱気を帯びてしんしんと話してくれたよ。

その感じ、、良かったな。